第21話「氷川清話」を読む

2015.10.26, 月曜の朝

~2015.10.19(月)~

 幕末・明治期の政治家である勝海舟は文政五年(1823年)江戸で生まれ明治三十二年(1899年)に赤坂氷川町の自邸で七十七年の生涯を閉じたが、その人生は波乱に満ちていた。前半の四十五年間では江戸幕府の瓦解にまで立会い、慶応四年(1868年、明1)の戊辰戦争では旧幕府軍を代表して新政府軍の西郷隆盛と交渉に当り江戸城を無血開城へと導き、維新後は参議兼海軍卿を経て伯爵を授かり、晩年は枢密顧問官に就任、国政のご意見番として明治政府を見守り続けた。遡ることペリー来航時(嘉永六年、1853年)には、無役の御家人でありながら早々に海防論を説き、二年後に開設された長崎海軍伝習所で大きな役割を果たした。安政七年(1860年)に軍艦奉行木村喜毅らと咸臨丸で渡米(サンフランシスコ)、文久二年(1862年)に軍艦奉行並を命じられ、坂本龍馬と出会うのもこの年である。この春、土佐藩を脱藩した龍馬は二十八歳、海舟は四十歳であった。他界する前年(1898年、明31)に徳川慶喜を明治天皇に会わせることで明治維新の仕事に“けじめ”を着けるなど、激動の中でも敗者の意義にも心を留め、近代国家のその後を冷静な視線で透視する威風堂々たる政治家であった。
 晩年は多くの人々と様々な談話を交わした。その内容を各新聞や雑誌が取り上げ、後年になってそれ等を語録集に編んだ小冊子が「氷川清話」である。この中で世間に最も知られるエピソードが福沢諭吉の「痩我慢の説」、海舟は幕臣にもかかわらず江戸幕府を崩壊に追い遣った明治政府の重鎮にも従事、福沢は両君に仕えた彼の行動はあるまじき“私事”として「痩せ我慢」だと称して批判した。これに対して海舟は以下の通り堂々と反論している。本文より、・・福沢がこの頃、痩我慢の説といふのを書いて、おれや榎本(武揚)など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差し支えないことを言ってやったまでサ。福沢は学者だからね。おれなど通る道と道が違うよ。つまり、徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂ふるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ・・。
 「政治家」とは、如何なる政権の下であろうとも、重大な国家の課題に対しては冷静且つ着実に解決へと導く実務家であり、理論にばかりに気を取られ机上の空論を説く学者とは立場が全く違うと否定、“徳川幕府あるのを知って日本あるを知ること”、これこそが百年を憂う士(政治家)の真の姿だと説いた。要するに、海舟自信は徳川であろうと明治政府であろうと、母国である「日本国」を真から憂い、庶民を国難から救うために命を掛けて仕えたと反論した。「政治」に対するこの没我的で誠実な姿勢は、狭い了見で専門分野ばかりを探求する学者の道(思考や方法)と異なり、インターナショナルな社会観と洗練された政治思想によるものであった。“鎖国”の下でしかも“儒教”を国教とする封建社会ではこうした骨太な世界観を持つ政治家の出現を許すはずがなく、従って、海舟は時代が生み落としたミュウタントであったかも知れない。彼が目指した「政治家」とは、忠義とか義理とか“私事”で行動するのではなく、あくまでも「公」の視座で「国家」へ奉仕することを規範としている、この理念の奥底には「新しい国家ビジョン」への熱い眼差しが潜んでいる。長く続いた「鎖国」政策から「開国」へと大きく舵を切った“時代”の激動期を見事に乗り越えた海舟の眼に、果たして江戸時代(封建)と明治時代(近代)がどうのように映ったのか、幕府も朝廷も越えた“新国家”を目指した彼が最終的に何を見出したのか、“崩壊”と“建設”を繰り返す「歴史」とはいったい我々に何を示唆するのか、私は坂本龍馬(稀代の平和主義者)を学ぶうちに龍馬が“今にて日本第一の人物”(姉の乙女に宛てた手紙)と称し“我が師”と尊敬した海舟に興味を持ち、彼の思想と背景をますます知りたくなった。
 今、日本は国内外共に深刻な課題が山積し国政は大きな転換期を迎えようとしている。然るに、わが国の“明るい将来”は展望出来るのか?そのヒントを期待して「「氷川清話」(講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲編)を手に取ったのである。
 本文は、海舟の生い立ちや体験談、古今東西に渡る人物論、時事と政治、軍事と外交、文芸論、処世論、維新後三十年の経過など多岐に渡るが、全体を通して勝海舟という人物の特徴は概ねふたつある。そのひとつは、並外れた高い見識の持ち主であり、しなやかな「胆力」を有し機敏な実行力を発揮する実務家で、その基盤は剣術修行で鍛えた強固な心身を備えていたことである。剣術指南役は世に名高い島田虎之助、長く続いた“戦さ”の無い太平の世で剣術は次第に“形”に依存するように変質したが、彼はそれを由とせず、あくまでも実践に即した稽古を奨励した。本文より、・・(略)本当に修行したのは、剣術ばかりだ。(略)それからは島田の塾へ寄宿して、自分で薪水の労を取って修行した。寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で、王子権現に行って夜稽古をした。(略)心胆を練磨し、また起って木剣を振りまはし、かういふ風に夜明けまで五、六回もやって、それから帰って直ぐに朝稽古をやり、夕方になると、また王子権現へ出掛けて、一日も怠らなかった。(略)かうして殆ど四ヶ年間、真面目に修行した。この座禅と剣術がおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の境を出入りして、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった。(略)・・おれはこの人間精神上の作用を悟了して、いつもまづ勝敗の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。それで小にして刺客、乱暴人の厄を免れ、大にして瓦解前後の難局に処して、粛々として余地を保った。(略)
 海舟の強靭な精神力(虚心坦懐)と機敏な行動力は、厳しい「剣術」と「座禅」修行によって培われた。例えば「江戸城無血開城」の如く“勝敗”にこだわらない「政治的決断」は、学問(儒学と蘭学)から得た高い見識もさることながら、実践的な「剣術」と「座禅」の修行で養った鋭い「感性」と「胆力」によるものであったろう。
 もうひとつは、当時の社会規範(儒学)や古い因習に囚われない「自由人」、時には“無頼”とも見える大胆な言動と行動を貫いた点にある。“江戸っ子”気質で歯切れのよい論客ぶりは「氷川清話」の文体そのものに表れている。相手構わずズバリと切り込む強面な主張は海舟の十八番、痛快な話し言葉で相手を圧倒する語調は、龍馬が姉の乙女に呼びかける手紙の中に見るユーモアに満ちた下世話な口調と合い通ずるところがあり、黴臭い武士には見られない賑々しい町人の匂いをプンプンと放っている。龍馬の生家は“才谷屋”と言う屋号を持つ裕福な商家で、しかも次男だから自由奔放な性格を有したことは間違いない。また、海舟の父親である勝子吉は幼名を亀松といい、七才の時に旗本の勝甚三郎の養子に迎えられたが、小吉の父親である男谷平蔵も元はと言えば男谷家に招かれた養子であった。平蔵の父親は貧農出身の米山検校と呼ばれ、江戸に出て蓄財し旗本株を手に入れたことにより武士への”家系“が開けたのである。従って、祖父平蔵から父親の小吉へ、小吉から息子の海舟へと町人気質が受け継がれたことは明白、海舟もまた龍馬と同様に町人文化を背負っていた。小吉は「夢酔独言」と題する日誌を残し、その文体も「氷川清話」と同じ口語体で身近な日常生活や子供の話題をありのままに描き、龍馬の手紙が醸す飾らない素朴さと快活な雰囲気にもよく似ている。
 自由奔放な口調は「氷川清話」の真骨頂、例えば、日清戦争が終わり、明治三十年末に第二次松方正義内閣が崩壊、代わって第三次伊藤博文内閣が成立するが、その直後の談話は以下の通り収録されている。本文より、・・(略)伊藤がよして松方が代わっても、松方が引いて伊藤が出ても、格別変わった事もないようだが、そうするとみんな団栗の背競べと見える。おれは薩摩の人に遇うと蛮勇だといってやるが、しかし、目の前の事に小刀細工ばかりやって居る世の中では、蛮勇の方がむしろ男らしいかも知れにないョ。(略)・・
 伊藤博文は長州人、松方正義は薩摩人であるが、この文節の背景には不甲斐ない薩長閥政治への批判が覗いている。明治維新の主役である長州や薩摩人についても、彼が目指す「政治家」のレベルと人格的に大きな隔たりがあるとし、金銭欲に塗れ打算的な策略家の如き評価を下す処世論は注目に値する。本文より、・・(略)長人と薩人のヤリ口を一言でいえば、長人は天下をとるために金を稼ぐが、薩人は金を得るために天下を稼ぐという相違がある。ソレと、モ一つ、長人は死んだ後々の事までも誤解されぬように克明に遺言などをかくが、ソコに行くと薩人は至極アッサリしたもので、斬られ場に直っては一言もいわず、知己を千載に待つという風があるのサ。吉田松陰や西郷はなど、よい対照だよ。・・(略)
 翻って言い換えれば、薩・長・土・肥の下級武士たちが中心となり、一部の武闘派によって巻き起こしたクーデターが後世に於いて“国際化”へ導いたが、その国政を担う彼等が果たして新しい国家ビジョンを描く「知性」と「力量」を有していたのか!を海舟は辛辣な眼で問い正す。この一節を読むと、我が国の近代史が如何に“薩長史観”(勝者の歴史)によって都合の悪い史実が封印され、歪曲されて来たか?いささか疑念を抱かざるを得ない。近代史は“敗者”の史実も含めて評価しなければならないであろう。
 こうした海舟の鋭い先見性や実務家としての才能は、若き御家人時代から既に備わっていたようである。顕著な例として、米国艦隊の来航に驚いた幕閣たちが右往左往する中、僅か40俵取りの幕臣で小晋請(無役)組の勝海舟(31歳)が海防意見書(愚存申上候書付)を幕府上層部に提出した。長年、将軍直属の老中や若年寄が権勢を誇る幕政体制で無役の御家人が上申するなど、到底有り得ぬことであった。概要を見ると(1)人材をよく選べ(2)軍艦を造る(3)江戸の防備(4)学校を創る(5)火薬と武器を作るなど、極めて具体的な対応策が記述され、それまでの保守的な政治とは全く別次元の革新的内容に触れ、既に幕政が無力に近いことを見破っている。これを発端に幕府は朝廷の意を外に「開国」へと踏み込む、二年後の安政二年、オランダ海軍中将を招聘して長崎海軍伝習所を設立、勝海舟はじめ榎本武揚や矢田堀景蔵、中島三郎助などの異才が全国から集まった。驚くことに、海舟はこの伝習所滞在中に見聞した事柄を克明に記録し「蚊鳴余言」と題する小論文を残した。伝習所の教習プログラムをはじめ彼が学んだ自然科学や海事・軍事、様々な海外知識と伝習所に携わった人物、オランダ講師を通して見た日本人への評価など、冷静な目を通し国際的な感覚で書き留めており、海舟が実務家として如何に正確で綿密な観察眼を有していたかがよく解る。おそらく彼は、日本近代史に於いて最初に登場する国際人の先駆けであったろう。先駆者と言えば思想家の横井小楠もその一人である。本文より・・(略)おれは、今までに天下で恐ろしいこの二人見た。それは横井小楠と西郷南州とだ。横井は、西洋の事も別にたくさんは知らず。おれがおしえてやったぐらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、及ばぬと思ったことがしばしばあったヨ。(略)・・
 海舟は横井小楠の開明的な思想と西郷隆盛の頑強な実行力が組み合えば、今や権勢を失った幕府など簡単に崩壊すると睨んでいた。二人が有する優れた知力と並々ならぬ度量の大きさを知る海舟は、目先を繕い“欧化主義”に耽り華美で贅沢三昧な日常生活を送る元勲たちを厳しく諌め、「胆」の据わっていない亜流の政治家であると酷評し、政治の真髄は「誠心誠意」にある!と唱える。加えて、近代日本のあり方についても触れている。本文より、・・(略)世界の大勢につれて、東洋の風雲がいよいよ急になって来たから、われわれ日本人たるものは、深く注意してこれに処する方法を講じなくてはならない。それには少くなくとも、これまでのやうな偏狭な考へを捨てて、亜細亜の舞台に立って世界を相手に、国光を輝かし、国益を謀るだけの覚悟が必要だ。そして、こんな大精神を国民の間に養成するのは、国家教育を盛んにするよりほかに道はないが、その国家教育の基礎は、実に小学教育にあるのだ。(略)・・
 つまり、国際化社会では視野の狭い政治家は通用せず、日本は欧米諸国の下僕ではなく、あくまでも亜細亜の中の一国として位置付け、国益を謀るためには“覚悟”を有する勇気ある政治家がことに当らねばならないと諭す。文中「こんな大精神を国民に養成するのは・・(略)・・小学教育にある」とは、豊かな「情操」と厳格な「倫理」を重ずる日本の伝統的精神を宿す「藩校」や「私塾」をイメージしているようでもあり、他方では、西洋文明の象徴である合理主義や競争原理に対していささかの危惧を抱いているとも思われる。いずれにしても、維新以前に蓄積された風土、即ち、地方豪族や藩主が築いた「地方自治」や儒教で培った「精神」を全面的に否定はせず、一人の国民的な立場(彼は現代の我々と同じく“国民”という意識を既に持ち合わせていた)に立ち、「新しい国家としての日本」を追い求めようとした。そして、海舟は「この国の民は、ひょっとすると明治よりも江戸の方が幸せだったかもしれない」と言う意外な言葉を残すが、その真の意味は、彼が亡き後の日本の悲惨な歴史が物語っている。
 これから先は私の余談である。
 日本の近代史を学ぶと、概ねふたつの課題が見えて来る。ひとつは明治維新(1868年)から約170年を経た今日まで、前半の約100年間は日清(明26)・日露戦争(明36)はじめ第一次世界大戦、満州事変、日中戦争を経て第二次世界大戦(昭20、敗戦)へと続く過酷な戦争の歴史であり、太平洋戦争では約310万人に及ぶ日本人の尊い“命”が犠牲となった。19世紀に於いて、欧米列強国がアジアへと植民地支配を広げて行く大海原で日本が初めて経験した国家存亡を掛けた厳しい試練の歳月、その深い傷跡は現在も海外諸国との間で生々しく疼いている。特に尖閣諸島、竹島、北方四島などの領土問題は、「国防」の観点からも早急に解決すべき政治課題である。
 もうひとつは明治国家が築いた「中央集権」という政治体制の“光”と“影”である。「富国強兵」の下で「欧化主義」がもたらした西洋思想や様々な技術、多様な生活文化は我々に豊かな暮らしをもたらし、“民主主義”と“自由経済”社会の下で安全な国民生活が保障され、他の先進職と共に発展して来た。これは正しく“光”である。しかしながら、その一方では約100年間にも及ぶ戦争を続けたことで、膨大な戦費に掛かる財源と必要な人材は惜しまれることなく地方から吸い上げられたことも事実である。即ち、江戸時代に培った地方財政と優秀な人材は全て国家権力(中央)によって戦場に狩り出されたと言ってよい。この暗い“影”が全国辻浦々へと広がり今日の“中央と地方との格差”を引き起こす起因となった。明治期、大正期、昭和を経る中で、地方の衰退は現在も回復の見込みが立たないほどに枯渇してしまったのである。海舟はこの悲劇について既に「氷川清話」の中で“予知”能力を発揮している。それは、東京一極集中型の政治体制へ投げ掛けた疑問であり、社会秩序を失いつつある日本人への警鐘とも言える。悲劇の出発点はいったい何処にあるのか?日露戦争が終結したあたりから過激派や武闘派たちが政治の舞台に姿を見せ、やがて横行する軍国主義の下で軍人が政権を握って行く、この間、冷静な判断で具体的な実務を正確に処理できる勝海舟の如き政治家が何故出現しなかったのか!あるいは、出現したとしても龍馬の如く直ちに政界の隅に追いやられたのか?次々と摩訶不思議な疑問が沸いて来る。
 「地方の時代」と呼ばれて久しい。敗戦後、日本は国土復興を旗印に国政は経済政策を重点として「所得倍増論」をはじめ「日本列島改造」や「地方創生」などを唱え、近年は「地方再生」と言うスローガンが飛び交っている。しかしながら、これ等はいつも“中央”の声で始まり“中央”の声で終わった。今もって“豊かになった”と胸を張って言えるほど地方経済は回復せず、依然として“繁栄”は東京に偏ったままである。司馬遼太郎は「明治という国家」の中で“東京”は西洋の「配電盤である」と称した。国際経済を含む海外情報や技術など全ては“東京”を経由して地方に配られるが故に、地方は回復どころか“格差”は広がるばかりだと指摘している。
 言うまでもなく、地方の繁栄は、地域開発計画の立案と内容に於いて地方自治(政治)と住民が主役でなければならない。そうでなければ単なる絵に描いた餅であろう。この点、江戸時代は各藩主(地域のリーダ)が領地の特性に応じた産業振興策を推進し、藩校や私塾が人材を養成しながら財政改革を厳しく断行した。即ち、地場力はそこに住む人々によって作られ支えられていた。城下町や門前町など我々が旅行先きで見掛ける落ち着いた町並みや美しい風景、温かい人情味はみな江戸時代までに築かれた地方武士や豪族たちの文化遺産である。“自主性”を確立する為には、“地場力”(政治・経済・教育・文化)を自前で育てることが大前提になる。もう一度、新たな角度から江戸時代を見直す必要があるだろう。
 開道170年を経た今日、これからの北海道に勝海舟の様な「知性」と「胆力」が備わった政治家や経済人がきっと現れる・・そうすれば、必ずや新しい開発ビジョンが日の目を見る時が来る・・と念じつつ「氷川清話」を読み終えた。
 すると、ふと・・ある記憶が脳裏を過ぎった。戊辰戦争の終焉となった函館戦争で幕府軍の指揮を執った榎本武揚が構想した“独立共和国”である。彼もまた海舟と共に長崎伝習所で学んだ秀才の一人である。そう言えば、去る2008年のこと、大勢の有志が集まり「榎本武揚没後百年記念事業」を実行すべく“札幌実行委員会”を組織した。記念事業は準備期間も含め約二年間に渡り、榎本武揚の縁の地である函館と札幌、小樽に分かれ、それぞれの実行委員会が独自に企画した事業を展開した。この年の秋、我が実行委員会は道新ホールに約600名を越す参加者を迎えて「北海道の未来」を語るシンポジュームを開催、これをもって盛会のうちに全事業を終えることが出来た。帰り道、祝杯を上げた仲間たちの晴れ晴れとした顔が浮び、目を閉じると榎本武揚がオランダ語で綴った「冒険こそが我が最良の師である」という言葉が蘇って来た。(終)
(参照資料)「日本全史」(講談社)、「氷川清話」(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)、「氷川清話・夢酔独言」(川崎宏編、中央公論社)、「海舟余波」(江藤淳著、文芸春秋)、「南州残影」(江藤淳著、文芸春秋)、「幕末史」(半藤一利著、新潮文庫)、「昭和史」(半藤一利著、平凡ライブラリー)、「明治という国家」(司馬遼太郎著、中公文庫)、「龍馬が行く」(司馬遼太郎著、文外春秋)。