第19話 早春賦

2015.04.13, 月曜の朝

~2015.4.13(月)~

 去る三月二十八日午後より我が社の“入社式”がAKKビル2階会議室で行われた。
 このビル(札幌市中央区二十四軒)には平成七年五月から平成二十五年五月まで約18年間に渡り本社を設置、辛いことや楽しいことなどの思い出がぎっしり詰まった想い入れの深い建物である(現在残っているAKKオフィスも本年四月下旬をもって移転する予定である)。設立当時(昭和五十九年)からこのビルに移転するまで(平成七年五月)の約十二年間は、母体となったHIT((社)北海道開発問題調査会)と同じ毎日会館(北4、西5)で過ごしていたが、社員や業務量の増大に伴い新築のAKKビルに移転することになった。現在の「南一条道銀ビル」に移転したのは三年前の平成二十四年五月であるが、創業三十周年の節目を迎えるこの間、周囲の方々からご支援を賜りながら本社を二度に渡り移転したことになる。いずれも操業十二、三年目が転機となったが、何故か?これらの移転は設立時に順ずるように季節は春風が薫る五月連休明けとなった。移り行く四季に何がしかの意味を求めるのであれば、我が社は“春”の季節を謳歌する若者達が集る・・と言えるかも知れない。
 話題を入社式に戻し、私の祝辞が済んだ後で澤田専務から組織図が示され、社員は本社、AKK、東京、横浜オフィス、あるいは各出向先へと配属が決まり、新年度事業方針の発表に引き続いて各部長がそれぞれの特性を活かした事業計画を説明した。所々、休憩を挟みながら約3時間に及ぶ長い工程、私は諸氏の説明を聞きながら昔のことを思い出していた。
 昭和五十九年五月のこと、会社設立が間近かに迫った私はHIT事務所の隅を借り、以前勤めた会社の同僚だった根本政信君と長尾直子さんに手伝って貰いながら法務局に申請する登記書類の作成に没頭していた。書面上の事業目的や内容、資本金や株主、役員名簿など提出すべき書類は兼ねてよりの筋書き通りで一段落したものの、許可が出た直後から着手しなければならない現実的な事業内容や行動計画は必ずしも確信が持てる内容にまで煮詰まっていなかった。要するに“詰め”が甘かったのである。そのひとつが要員計画(採用の目処)、もうひとつはこれに見合う当面の仕事(システム開発作業)とその後の見通しである。手元にある資金は僅かばかり、少なくとも契約相手と取り組む作業範囲や開発日程、納期など事前に確定して置かねばならない。加えて、これ等が完了した後での請求書発行と回収は向こう六ヶ月間の期限を持って確実に固める必要があった。要するに、当面のキャッシュフローに応じた運転資金の“やりくり”である。これ等の要件を満たさないままでは到底設立申請は覚束ない・・こうして登記書類には記載されない現実的な実施計画に自信が持てず一人もぞもぞと悩んでいた。事情が事情だけに誰にでも相談出来る事柄ではなく、頭を掻きむしりながらむしゃくしゃする日々が続いていた。ところが、ある日、ふとオフィスの窓から外を眺めると、道庁赤レンガを取り巻く正面の中庭で桜が満開に咲き誇る光景が目に飛び込んで来た。いつの間にか春爛漫の季節を迎えていたのである。花盛りの樹々は美しいと言うよりも自信に満ち堂々とした威厳を呈していた。枝と枝の間を埋め尽くし隙間を有しない見事な咲きっぷりに圧倒され、悩んでいる自分が何とも小さく思えた。机上で幾ら思い悩んでも解決はしない!と決断したのはこの時であった。もしかすると、この桜に出会わなかったら法務局への設立登記は断念したかも知れない。物事の始まりとは誠に不思議なものである。
 設立当初から長年に渡り我が社を支えてくれたパートナ企業が㈱秋山愛生舘である。AKKビルの竣工を迎えた時、お祝いに駆けつけた故秋山喜代会長(㈱秋山愛生舘代表取締役)が見せた晴れやかな姿は昨日の如く憶えている。当時、秋山愛生舘はグループ企業(13社)の創成期に当り、若手経営者を育成しようとの目的で会長自ら「秋山経営研究会」を設立、私が事務局を務めた。こうした経緯からグループ企業の一員である弊社も㈱秋山愛生舘物流部門や㈱メディカル山形、㈱医薬総合研究所と一緒にこのビルに入居する機会を得た。
 当ビルのオーナ会社(㈱エイ・ケイ・ケイ)の創業者である田尻稲雄氏もグループ企業の一員であることから、氏は記念すべきこの建物を「AKKビル」と命名した。四階が我が社のコンピュターセンター、五階がオフィスと社長室であった。窓から環状線沿いに並ぶ満開の桜が青空一面に広がり、地下鉄二十四軒駅周辺の長閑な風景は今も目に浮かぶ。ある日、喜代会長を囲み、関係者が集まり新築ビルの玄関で記念写真を撮った。この時はいよいよこれから私たちグループ企業の新しい航海がはじまると胸に熱いものが迫り、心が洗われる清清しい気分で一杯だった。この後、弊社は文字通り発展・成長を遂げて行くことになる。この間、私はいつも窓から桜並木を眺めては四季折々に変化する鮮やかな風景に心が癒され、実に爽やかで充実した時間を過ごすことが出来た。近くの場外市場での買い物や公衆浴場で汗を流した後に傍の寿司屋で冷たいビールを飲んだ楽しい思い出もある。
 こうした訳で本年、この由緒あるAKKビルで入社式が行われことは私にとって感無量であった。新卒者2名、中途採用者1名を加えた総勢68名の社員と共々、設立三十一年度に相応しいスタートを切れたのは、創業時に入社した社員(第一期生)が今や幹部として立派に育つ中、年々優秀な若手社員が揃って来たからである。同時に私は年老いて仕舞い、惜しみなく時代が遠くに過ぎ去ったことも事実、時局は世代交代を迎えていると言えるであろう。勿論、私には○○個人商店から漸く一人前の企業組織へと成長した自負があり、長年の苦労が漸く実ったと想うと嬉しかった。
 入社式が無事に終わり、翌週の月曜日に出社すると、長年、私と共に仕事を進めて来たN君が“萱場さん!来て見て下さい”と元気な声を挙げて社長室に入って来た。先日、彼が窓際に設置した実験用の温室に案内されると、そこには小さな鉢に植えられたクローバーが青々と茂っている。N君が指差す先を見ると、何と“四つ葉”が一枚だけ他の葉に混じって健気に育っていた。私は思わず「アレ!」と言うと、「室温の制御機能が正常に働いている証拠ですよ」と得意気な顔でN君が答えた。室内で温度を一定に保つと“三つ葉”の成長に変化が生じ、時には“四つ葉”が出ると言うのである。彼は将来に向けて植物工場のパッケージ開発をイメージしてこの実験をはじめたらしい、新入社員と同様に我が社の“新しい芽”に育てばいいね~とエールを贈り、ひとつでも多く我が社の“夢”が“桜”の如く満開になる日が訪れることを祈った。
 もうひとつ。春になると思い出すのは母の姿である。我家では現在もなお四つの大鉢に植えたクンシランが満開に咲き続けている。生前の母が残したもの、私が結婚する以前から彼女が作った棚の上で育てられていたので人間の年齢で言えば四十五歳をとっくに超えると推測され、到底我が社の歴史では適わない。N君の言う通り、植物の大方は日常の室温管理をしっかりすれば毎年決まった時期に花を咲かせるらしい、我が家のクンシランは、まるで母の魂を宿したかのように三月中旬を迎えると見事に開花する。通年に渡り涼しい日陰を選び、厳寒の十二月から三月までは少し暖かめの部屋に移してやると、二月末ごろから根元の奥の方に萌黄色の蕾が顔を出す。そのひとつひとつが母の熱い思いに覆われている。眺めていると、なるほど“母親がいなくとも、子供はすくすく育つ”と思えて来る。
母は平成七年十月、老衰のため他界した。この春、我が社がAKKビルに移ってから間もなくだった。私にとっては順風満帆のところへいきなり荒波に襲われ、出鼻を挫かれた感があった。しかしながら今思えば、翌年二月には秋山喜代会長が亡くなられ、続く平成九年十一月には“恩師”と尊敬する志摩良一氏(初代社長)が旅立ち、翌平成十年四月には何と!㈱秋山愛生舘と㈱スズケンが合併するという具合に、この激動の五年間は試練とも思える暴風雨に晒された。
試練をチャンスに変えれ!初心に戻れ!・・等と昔から私を支えてくれる友人たちからアドバイスを頂いたのはこの時期である。このアドバイスを“お守り”に“再スタート”を期して少しずつ準備をはじめることにした。漸く平成十三年四月に至り、友人たちの温かい支援が実って私たちが独立する時局を迎えることが出来た。設立以来、社歴に刻まれる記念すべき大きな節目となった。
報告のため毎日会館三階のHITを尋ねた。途中、道庁赤レンガを通り掛かると思いも寄らず満開の桜が目の前にその華麗なる姿を映し出した。以前、しぼみかけた私を毎日会館の窓から励ましてくれた桜であった。何故か、涙が出て来て止まらず、しばらくはベンチに座って池の景色を眺めていた。すると、薄紅色の花びらが風に漂いながら目の前に集まって来た。桜の花びらが私を労わり“早春賦”を奏でていると思った。涙を拭って空を仰ぐとポプラの梢に白い雲が悠々と浮かんでいた。・・・そうした昔の懐かしい思い出が入社式に蘇ったのである。(終)