第15話 (四)白蛇伝~「コムカラ峠」外伝~

2014.01.27, 月曜の朝, コムカラ峠

~2014.01.27(月)~

 その後も母の言い付けを守り日曜日の朝には“山羊の乳”を貰いに下駄屋に通った。
 しかし、あの吹雪の朝を最後にして雪ちゃんが姿を見せることはなかった。彼女の近況を老婆から聞けるはずもないまま時が過ぎて行くうちにすっかり忘れてしまった。街中では相変わらず米兵たちの喧嘩が絶えなかったが、クレジー・ホースやパンチ・ボーイは戦場から帰らぬ人となり、あの勇ましい喧嘩姿を再び見ることはなかった。下駄屋で耳にしたジミーも同じ運命を辿ったとのではないかと想像すると、益々雪ちゃんのことが心配になった。
 新学期がはじまり、二年生の新しい教室は桜が植えられた校庭に面した日差しの当たる一階で幸いにも私の机は窓際、外を眺めると薄紅色の花びらが一枚また一枚と散って行くのが鮮やかに映り、中には風に吹かれて飛んで行く遠い先まで目で追うことが出来た。桜の木は太い幹が途中でふたつに分かれた老木で、その枝の間から通学路を覗くことが出来て街を横切る清流と木造の厳つい橋が目に入り、渡れば我が家が近くにあった。午後からはじまる最後の授業では、先生の話を聞く振りをしながら時々横目でその枝の間から幸ちゃんが現れるのを待っていた。約束通り橋を渡る彼女の姿が見えると先生の話など耳には届かなかった。校庭には柴の束を背負って読書に耽る二宮金次郎の銅像が立っていたが、毎日、幸ちゃんは授業が終わるまでこの陰にそっと隠れ私を待ってくれていたのである。我が家に来て直ぐに私の内気な性分を見抜いた彼女は“苦手な学友たちから守ってあげるよ”と約束してくれた。翌日から、雨の日も風の日も欠かさず迎えに来て、しかも私に付き添うことで仲間たちから馬鹿にされたり囃し立てられたりしないかと案じて自分が目立たぬように周囲に気を配っていた。特に、学校からの帰り道は知らぬ振りを決め込み、距離を置いて後から着いて来る有り様、そうした健気で優しい心遣いに私は感謝の気持ちもなく、ただ我が儘を言って甘えてばかりだった。
 ある日の放課後、珍しく幸ちゃんが神社山へ行ってみたい!と言い出したので二人は長閑な日差しに誘われ寄り道することになった。道草は彼女が一緒であれば母から許してもらえた。遊び慣れた神社山へ彼女を案内することは、もっと仲良しになれる願ってもないチャンス。校舎のグランドの奥に参道が連なり緩やかな傾斜を登って行くと相撲場に突き当たり、その横に神殿が奉ってある。この辺りを神社山の境内と呼び、冬になると小学生が集まり即席のスキー場となる。本格的な金具の着いたスキーで滑る者は上級生でも数少なく、下級生の大半は長靴を繋ぎ留める革紐が着いた簡便なものであった。他には“竹スキー”(竹を割り先を折り曲げたもの)もあり、それぞれが工夫した手作りのソリも活躍、相撲場から急な斜面を10㍍ほど下ると緩やかな坂道が続き順調に進めば平らなグランドに到達した。道幅も広く安全で穏やかなこのコースは幼い子や小学生には人気があり、時にはビニール袋を尻に敷き両足を宙に広げ上手に舵を取りながら勇ましく突進する下級生も現れ、少年たちは雪ダルマのように転げ回り時間を忘れて“滑る”ことに熱中した。
 二人がこの参道を登って行くと、白くて小さな花が空を埋め尽くさんばかりに咲き誇っていた。目を奪われ思わずその場に立ち止まると、彼女が急いで太い幹に近寄り両手で抱え「今頃は田舎でもこぶしの花が咲くのよ」と大きな声を上げニッコリと振り向いた。「真っ先に春を告げるのよ!」と自慢げに言った彼女の唇から僅かに覗いた小さな白い歯も花びらように透き通っていた。漸く訪れた春を謳歌するように枝々の先端まで余すところ無く真っ白い花で埋め尽くすこの剛毅な樹木が“こぶし”だと教えてもらいはじめて知った。そればかりではなかった。私は千歳に移って二度目の春を迎えていたが、こうした美しい景色に気付くことはなかった。いつも遊んでいる境内に春を告げる花が咲く・・など知る機会もなく見過ごしていた。それがこの街に来たばかりの彼女のお陰で“こぶし”を見付けたのだから嬉しいやら情けないやらで、その時の感激はいつまでも忘れなかった。
 見たこともない幸ちゃんの故郷で咲く花が同じ時期に神社山でも咲く・・それが彼女と出会う以前からずっと続いていたと想像するだけで胸が躍り、この街が少し好きになれそうな気がして来るのを感じた。
 幸ちゃんは母や家人たちと昼食を済ませた午後、掃除と洗濯を終えると私を迎えに学校へ向かうのが日課、母には“今日は早目に出て見張ります”とか何とか言ってその場を繕い、校庭で私を待つ僅かな時間を盗んで神殿に足を運びお参りしていたに違いなかった。彼女が得意とする故郷の話題の中に願いごとをお祈りすると叶えてくれる鎮守様が登場した。
 この場面に来ると急に大真面目な顔に変わり真剣に話しはじめる、その様子から察すると神社山の神殿も鎮守様と同じく大切な神様の住み処だと本人が信じていても不思議ではなかった。
 お参りの折、偶然に境内で“こぶしの花”を見付けた彼女は故郷を思い出した。その日以来、何時咲くのか?何時咲くのか?と誰にも内緒で通い詰めていたのであろう、漸くその日が訪れて私を誘った・・この日ははじめから彼女の計画であったと思われる。
 私を迎えに来る日課の他にも別な用事を作り、時々境内を訪れては“こぶしの花”を観察していたに違いない。もちろん私にも内緒だった。私の知らない彼女の“ちゃっかり屋”の一面を垣間見て何ともおおらかで羨ましかった。普段から正直者で生真面目な彼女が仕事の合間をみて神社山へ向かい、神殿に願い事を祈ってから“こぶしの花”に寄り添い故郷に思いを馳せて自分一人の時間を過ごしていた。“田舎へ帰りたい”一心だったのかも知れないが、私はそうしたいじらしくてお茶目な幸ちゃんがますます姉のように思えて来た。それに彼女の控え目なきめ細かい優しさは到底母には望めないことでもあった。
 私たちは春の日だまりの中で太い幹に背をもたれ、散りばめられたこぶしの花の隙間から青い空を眺めていた。突然、幸ちゃんが「去年の夏、辞めた雪ちゃん・・憶えている?」と尋ねて来た。胸がドキンと鳴った。すっかり忘れていた彼女のことを幸ちゃんから聞くとは思いも寄らなかった。下駄屋で出逢ったことは母にはもちろん幸ちゃんにも秘密、雪ちゃんの名誉のためにあってはならないことだ。「サリー!」と老婆が呼ぶ声が森の奥から聞こえて来るような気がして私は焦った。「実家から戻って来ると・・母さんが言っていたよ!」と嬉しそうな声が辺りに響いた。雪ちゃんが実家に住んでいるということは私が下駄屋で会った後日の出来事、ジミーが戦死したか?それとも何かの事情で彼と別れて田舎に帰ったか?どちらかに決まっている。本当のことを知りたければ本人に直接会って話す他に術はないが、この場はどうあってもしらを切る他なかった。私はわざと「いったい、どうして?」と知らぬ振りして嘯いたが、その白々しい言葉が私の胸を突き刺した。
 近くを流れる千歳川のせせらぎが聞こえて来た。大きく妙に耳に響く音だった。神殿の裏にはいつも白い波が立っている浅瀬がある。雪解けで水かさが増しているとは言え、上流の支笏湖に棲むあの女神の仕業かも知れなかった。秘密を暴こうとする気配か、あるいは使者の白蛇が私たちの会話を聞き急ぎ湖に向かって泳いだ音とも受け取れた。
 すると、雪ちゃんの顔が浮かび支笏湖で白い蛇を見た時のことを思い出した。白い花を着けた枝が空に向かってスルスルと伸びる姿を見ていると、この樹木も女神の化身か?あるいは白蛇の如く使者かも知れないと疑わざるを得なかった。山鳩が鳴いて、たしかに私は女神や白蛇、こぶしの花に見張られていたのかも知れない。雪ちゃんの秘密も下駄屋のこともすべての出来事は女神がお見通し、本当のことを幸ちゃんに打ち明けなければ女神の怒りに触れるやも知れず、あるいは既に白蛇に見破られていると案じられた。
 「田舎では仕事が見付からなかったみたいよ」幸ちゃんは自分ごとのように悲しそうに呟いた。私は耳を疑った。下駄屋で出逢って間もなくジミーの死に直面して実家に戻ったはず??それとも、まったく違う理由で幸ちゃんや母に嘘を付いているのか?・・そうだ、雪ちゃんに嘘があるとすれば、それは唯ひとつ、我が家を出てから一年余りの期間はジミーか!あるいは他の米兵と一緒にハウスで暮らしていたことになる。だが、雪ちゃんがこうした人に言えない暮らしを隠しているとは思いたくなかった。それよりもこの大混乱が目の前にいる幸ちゃんに悟られると大ピンチとなる!雪ちゃんが我が家に戻れなくなることの方が心配だった。何も知らない幸ちゃんが「また、一緒に楽しく働けるといいね」と言って花びらのひとつを掌に乗せ頬を膨らますと“ふっ”と吹き飛ばした。その仕草が何処か投げやりで沈んで見え、もしかすると、雪ちゃんと自分を重ね合わせて田舎で暮らす方が幸せだと思ったのかも知れない。私の苦々しい思いもこの花びらと一緒に何処かに吹き飛び早く消えてしまえばいい!と心の中で叫んだ。
 それから間もなくのことであった。
 学校から帰ると夕飯時でもないのに家人たちが大広間に集まり賑やかな会話の真っ最中であった。母は必ず月に一度は札幌へ買い物に出掛けた。お店で使用する食器や家人たちの衣類、家族の身の回りの品などを買い求め、お土産に綺麗な装飾品やお菓子を持ち帰った。貧しい実家を持つ家人たちの複雑な事情をよく知っていた母は、ひとりひとりが気に入るような品を用意し、帰るとみんなを大広間に集めて喜ぶ顔を眺めては満足していた。朝からお土産を待っていた家人たちは余程嬉しかったらしく、大広間は母を囲んで賑やかな団欒の場となり夕食や仕事がはじまる時間も忘れて騒いでいた。この日、大広間の騒ぎは“札幌のお土産”だと早とちりした私は早速仲間に入ろうとした。気付いた幸ちゃんが“トシさん”と大声で呼び私を手招きした。一瞬、しーんとなって輪の結び目が解れて家人たちの顔が一斉に振り返った。すると、驚いたことに輪の中から母の手を握って笑顔を浮かべる雪ちゃんが現れた。「また、みんなと一緒に暮らすことになったのよ」と母は家人たちを見廻しながら彼女の手を握り返した。
 雪 ちゃんと目が合った。私を前にして彼女の唇が僅かに動く気配を感じた。私は何も無かった振りを繕って「よかったね」とひと言挨拶を済ませその場を逃れるように急いで部屋に戻った。もしも、雪ちゃんから何かを問い掛けられても、その場で素直に答える自信がなかった。下駄屋のことは私と彼女だけが知っていること・・母や幸ちゃんは勿論、誰に対しても秘密にして置かねばならない・・と改めて自分に固く誓った。ただ、下駄屋の老婆から知人を通して母に知られる怖れが残った。もしかすると、母は既に雪ちゃんの本当の事情を知っていたかも知れなかった。(つづく)