第13話 郷愁の彼方に

2013.06.03, 月曜の朝

~再び咲いた胡蝶蘭~

~2013.06.03(月)~

 今年のゴールデンウイーク、久しぶりに十日間の休暇をもらった私は家内と一緒に自宅で気ままに羽根を伸ばすことが出来た。近くの川べりや青葉公園を巡る散歩、むかし母に連れて行かれた魚屋と肉屋、馴染みの“そば屋”で昼食、ドライブ(新車)を兼ねたゴルフの練習、手料理と読書など、久しぶりに幼い頃から住み慣れた街中で平凡に過ごす日々が楽しかった。五十代後半までは左様な“郷愁”の心持ちとは無縁だったはずだが・・。明けて五月七日(火)朝、まだ休みボケが抜けないまま執務室に入るとTさんが何か訴えるような顔付きで「胡蝶蘭、咲きましたよ」と声を掛けてくれた。ちょうど昨年の五月、朋友の故徳本英雄氏(当時、(社)北海道開発問題調査会理事長、通称HIT)から頂いたお祝いの品がこの豪華な胡蝶蘭だったが、約一年ぶりに蕾を付けた姿を見て感無量であった。連休に入るまでは裸になった三本の枝を眺めては“在りし日”の故人を思い出していた。“何故だ!私より三歳も年下の友人が死なねばならないのだ!”怒りは少しも解れることはなかったが、この蘭だけは朝の日差しを浴びて毎日出社する私を待っていた。Tさんが指す窓際に目をやると、細い枝先に鮮やかに咲いた白い花が目に飛び込んで来た。思わず「あっ!徳さん・・」と叫んだきり、胸が詰まって涙が止まらない。近づいてよく見ると、枝先にはみっつの花びらと小さな蕾がひとつ、それぞれが小鳥のように健気に枝先に留まっている。例年にない厳しい冬を乗り越え真っ先に春を告げてくれた、否、天国の徳さんから一年振りで届いたメッセージだ・・そう思うと胸が一杯になった。
 花びらのひとつは徳さんからの現況報告、もうひとつはHITの五十嵐智嘉子理事長(後任)への激励、最後のひとつは私へのご機嫌伺いだろうがどれも元気溌剌と咲いている。この一年間、徳さんは天国からこの花に語り掛け私の心痛を覗っていたに違いない。鋭い感性の持ち主だから白い花や細い枝は精密なセンサー代わり、あるいは盗聴器みたいな役割を演じていたと想像する他はない。少し萎み掛けているが、可憐な蕾は生前よく語り合った新しい北海道開拓に登場する“夢”の余韻とも受け取れる。いずれにしてもこの純白の蘭には徳さんの魂が宿り、連休明け一番先に見付けたTさんも同様の心境だったはず。
 昨年五月、約二十年振りに弊社が引っ越した際、見事鈴なりに咲いた高価な胡蝶蘭が新しい事務所に届いた。鉢の中にお祝いの赤い札が添えられ、徳本氏の名前が見えたので嬉しくなり、即刻、お礼の電話を掛けた。「近いうちに一杯やろうよ」と誘うと、「うん、大変だなあ・・」と無愛想なひと言。飾らない言葉の中に噛み締めるように“今日までよく頑張ったな!”と激励の気持ちが伝わって来た。ところが、その直後、彼は入院先の病院で突然この世から旅立った。忘れもしない当年五月二十四日、朝の通勤電車の中で携帯電話がブルブルと不気味に震え五十嵐智嘉子さん(当時HIT専務理事)から訃報を聞かされた時は全身から血の気が失せ、将に青天の霹靂。あの日、徳さんとの電話のやりとりは何と!入院先でのこと、私に心配させまいとその場を繕っていた彼のことを後日はじめて知るところとなった。気が付いた時は遅い!私は鈍感な自分を責め、生前交わした“新事務所に案内する”との約束が水泡に帰し、無念な気持ちは容易に拭い去れるものではなかった。にもかかわらず、事務所では亡き徳本氏を待ち続けるかのように胡蝶蘭がいつまでも艶やかな姿を留めていた。葬儀が終わりしばらく経っても、まるで彼の魂が乗り移ったかのように一輪だけが思い切れずに枝先に残って咲き続ける姿は不思議と云う他はなかった。本件は本編「月曜の朝」十一月に掲載、「第六話 故・徳本英雄君を偲ぶ~不思議な胡蝶蘭~」で詳しく述べた。だが、一年過ぎた今日でも尚、一輪だけでも咲かせようとする故人の思いが伝わって来て、改めて彼との懐かしい日々を思い出した。
 二人でお酒を飲むと、日々読書三昧だった彼はきまって読み終えた著書を話題にした。少し酔いはじめると「カヤバさん・・○○を読みましたか?」と尋ねて来る。出逢った頃はもっぱら小林秀雄と橋川文三、時々吉本隆明などが登場し本格的な文明・文芸論に及ぶ時もあった。私も学生時代は中原中也に興味があったので小林秀雄の作家論を読み、吉本隆明著「言語にとって美とは何か」(詩論)に心酔したこともある。徳さんが得意とする形而上学的な難題はなるべく避けることにしていたが、大方は奨めてくれるままに読み終え、次回の酒席で感想を述べることにしていた。
 たしか・・最後となったお奨めの著書は「下山の思想」(五木寛之著、幻冬舎新書)であった。冒頭に「いま、未曾有の時代がはじまろうとしている。いや、すでにはじまっているかもしれない。私たちはそれに気づかなかっただけなのだろうか。とんでもない世の中になってきたぞ、と実感しながら、それを無視してきたのである。しかし、そのしらんぷりも、もうできなくなった」と深刻な内容ではじまる。“下山”は山岳を征服する“登山”(上昇志向)に対して文字通り反対の意を有する言葉(概念)である。山頂を目指す登山は見上げる風景の中に自分が立つ、従って人一倍強い気概や体力、厳しい訓練と高度な技術が必要となる。これに比べて下山は目的と身辺の状況がまったく異なり、今来た道を引き返かえす(たとえ別なルートでも)のだから安全な帰路を求め、無事に帰宅することを念頭に出来る限りリスクを排除しようと考える。
 “下山”は見下ろす風景は既に記憶に新しく、それを楽しみながら無理なく山を下る冷静な判断が必要となる。即ち、目的を果たした後、問われるべき心構え(精神)や行動(人生)は、それまでとは別な次元で在らねばならないと云う。例えば、敗戦から急速に復興を為し得た我が国の現状と“行く末”に思いを馳せればことは重大、高度成長社会から低成長時代を迎えた日本国が今後何を拠り所として、如何なる視点から何を学び、日本人がどの様に生きて行くべきか?それは次世代にとって深刻な課題と言える。
 もうひとつ、著者の意図するところは、決して安易な虚無主義では無い。“学び採る”“生き抜く”の意味合いを込めて前向きに“余生を送る”ことの意義、“若々しい精気漲る息吹と成長の世界”を過ぎたならば、心を落ち着かせ足は地面をしっかりと踏む占め、“安らぎ”を求めて“動”より“静”を選び、少しも力まず、冷静で且つしなやかな姿勢をもって人生を楽しむ所に新しい価値を見出している。
 最後の章“ノスタルジーのすすめ~郷愁世界に遊び楽しみ”の中では「過ぎし日の思い出は、甘美である。その甘美さは、決してうしろ向きの感傷ではない。人は現実生活の中で傷付く。心が乾き、荒涼たる気分をおぼえる。そのガサガサした乾いた心をうるおしてくれるのが郷愁だ。砂に水がしみこむように、歳月が心にしみこんでくる。今は還らぬ季節。今は還らざる明日であるからこそ、貴重なのである」と、明るい文章で結ばれている。
 この内容に照らすと、私も未曾有の時代に生きていることに代わりはなく、もう知らぬふりはできない。そして、徳さんとの還らぬ日々が心に染み込んで居るからこそ“過去”と言う時間は私一人の宝でもある・・と解釈できる。
 徳さんには胡蝶蘭がよく似合うのでこうしたメッセージをこの花に託したのかも知れない。酔うと「この国の未来は北海道にしか残っていない」と苛立つ口調で唱えた彼の言葉を思い出す。不透明な時代を目の当たりにして彼は知らぬふりを決め込まなかった。あくまでもプレイヤーに徹し、“北海道の未来を描く”ための組織(社)HITを創設した。そして、彼の薫陶を得た私は「本道にIT技術が役に立つ」の信念から(株)HIT技研を創業した。
 共に語った北海道への“夢”は、果てしない広がりと春風のように長閑で郷愁を誘う実り多き実践の場であった。しかしながら、今の私はどんどんと老いて行き身体も夢も萎む一方だ。そうした身でありながら振り返る在りし日の“夢”とは、今更いったいどの様な意味を持つのか?時には自分でも問い正したくなる。願わくば・・何者にも犯されることのない我が“誇り”で編み上げた金糸の勲章、老いぼれた“生きざま”を飾るに足るものでありさえすれば文句はない。人生の証を胸に“余生”をゆっくりと歩いて行く、そうでありたい・・徳さん!どう思う?と開き直って小さな蕾に語り掛けてしまいそうになる。
 私は五歳から現在の千歳市に住んでいる。街の隅々まで記憶の奥底で緻密に連なって見え、殊に、神社山や青葉公園は少年時代の遊び場と同時に隠れ場でもあった。毎年、五月になるとこの森に足を踏み入れるところから私の春がはじまる。奥へと進むと、冷気の中でいつの間にか咲いたエンレイソウに出逢う。白く小さな花だが何処か凛として逞しく、しぶといばかりに例年と同じ場所に咲いている。はじめて出逢った時、逃げ惑う少年にはこの花園が恰好のアジトとなった。暗い森影に群がる純白の花々は今年も咲き、昔も今も少しも変わらない。これからも”郷愁“の彼方にいつまでも咲き続けることであろう。(終)