第10話 創立三十周年記念、外伝!黎明期

2013.03.04, 月曜の朝

~北海道の“未来”を手繰り寄せる~

~2013.03.04(月)~

 弊社は来る四月一日付をもって会計年度を第三十期と更新し創業三十周年を迎える。
 設立当時(昭和五十九年六月)、北海道は国際化に伴う情報化社会の潮流に漕ぎ出して「一村一品運動」を契機に「北方圏構想」や「ハブ国際空港化」、あるいは「IT技術集積都市」など未来指向型の地域開発を求めていた。来るべき「地方の時代」に相応しく産・官・学の連携による”地場力“が問われ、明治開拓期以来続く”官依存体質“や”支店経済“と言う暗い既成概念を払拭する機会が訪れ各方面から熱い期待が寄せられた。その大きな担い手が先端技術(バイオマスと情報)であった。
 札幌通産局は「バイオ振興協会」を主催、()北海道電力は「バイオアイランド構想」を提唱、北海道は「長期開発計画」を検討する中で「臓器移植センター構想」(厚生省)を背景とする「ハイメックス構想」(高度医療複合都市)などの国際的な事業も肩を並べた。
 これらに先駆け札幌市は米国のシリコンバレーを参考に”エレクトロニクスセンター“を郊外に開設、若手経営者とIT技術者がベンチャービジネスの旗手として名乗りを上げた。”インキュベーション“という今では死語同然となった単語がよく使われたのもこの頃である。私もそうした周辺に感化されて”先端技術が如何に地域に役立つか!“を実践しようと、以前に職場仲間だった故・徳本英雄氏や西陰研治氏の協力を得て弊社設立を思い立った。社名が余りにも仰々しい理由は、事業領域が「地域開発と先端技術」と広範囲に及んだからである。(登記した定款には臆面もなくバイオマスと情報技術の両者を列記)真っ白い生地に魅せられながら高級品のボーンチャイナ(英国製)をイメージ、”手作り“(陶器)ではなくて、あくまでも”工業製品“(白磁器)として付加価値の高い商品を目指し生産工程とデザインにこだわった。当時、”磁器“への取り組みは道内でも珍しく、ビールジョッキーやワイングラス、チーズカッター、ペーパーウエイトなど様々に試作したが、中でも青色絵入りの菓子鉢が“工業デザイン賞”を受賞した時はスタッフ一同勇気を取り戻し嬉しい悲鳴を挙げたことは忘れられない。この他にも新篠津村と提携(村おこし)、「泥炭の利活用」にも着目し堆肥化をテーマに調査・研究の結果、小学四・五年生向けの教材用(理科)として「お米づくりセット」の製造(年間約40万セット)と販売に全力を投じた。小さな箱を開けると泥炭を加工した肥料の上に“お米の種”(籾殻付き)が6粒と「育て方」のマニアルが入っていた。幼い生徒が泥炭肥料の苗床にお米を植え観察しながら栽培すると秋には立派に収穫出来るという実に“夢”に溢れたコンセプトだった。冬期(農閑期)、農家の副業とするこの製造作業は新たに就業の場を創出する“村おこし”に繋がる産業モデルとして加賀谷強村長はじめ村の人々から高く評価されたことは記憶に残っている。膨大な量を処理する作業場所は村営の凍て付く体育館、寒くて石油ストーブを焚きながらの作業だった。同じ頃、蘭のメリクロン栽培(苗木)にも着手しバイオ技術による新しい産業を創出しようとしていた。
 本道未利用資源の代表格である「泥炭」は、ほぼ北海道全域に埋蔵、また、千歳川放水路事業(後年に中止)が着手(北海道開発局)されると膨大な採掘量が見込まれ、その活用範囲は代替エネルギーはじめ家畜飼料や肥料などの原料として有望だった。(株)酵生舎は「お米づくりセット」以外にも「泥炭」を肥料に「植物栽培キットシリーズ」(缶詰)と称して大都市圏をマーケットに販売活動を広げ、シリーズはハーブ7種類、ミニトマトとピーマンなど野菜5種類からなる商品群、西陰氏の悪戦苦闘する日々の中から生まれた。
 もうひとつ、弊社設立の件では個人的な面だが決して忘れられないことがある。
 当時、私も含め”地域開発“に”夢“を描く仲間が大勢集まり議論を交わす場(現・SAS北海道、若手の異業種交流)があった。秋山孝二氏(元・五代目秋山愛生舘代表取締役社長、現・秋山記念生命科学振興財団理事長)もその一人。彼が広域圏で営む社業(医薬品総合卸業)の将来像を描くに当り”国際的視野に立って地域特性を活かす“との着想から物流センター設立や受発注オンラインシステム自社導入など現場に”技術“を活用した経営に取り組みはじめた。それはあくまでも(株)秋山愛生舘の創業百周年を目前にする長期的な経営基盤整備事業の1コマだったが、我々周囲の眼から看れば本道が弱点(低効率)とする”広域性“や”冬期間“の課題に取り組み、自動制御倉庫・情報ネットワークシステムの導入により経済的効果を図ろうとした目論見は斬新的で社会的意義が大きく、目から鱗がとれた思いがした。同時に秋山氏はポートランド州立大学やルイス&クラーク大学生を招聘(毎年1~2度)し、”日本語と日本企業を同時に学ぶ“ことを当面の課題として各企業を集い「国際企業交流会」(IBEC)を設立した。この企業研修を切り口に地場の若手経営者が中心となり海外ビジネスの道を開らこうと、もうひとつの目標に向かった。当時、札幌市国際交流課(杉岡昭子課長)が中心となりミュンヘンはじめ瀋陽やポートランドなど姉妹都市交流の基盤が整い、次期段階には地場企業のビジネス交流へと発展させるため海外に目を向ける若手経営者の発掘を急いでいた。私もIBEC事務局のお手伝いをしながら市民活動の先駆けとなる”手作りの国際化“を体験、その後、設立した札幌市国際交流プラザ(当時、杉岡昭子専務理事)の活動を秋山氏と共に支援することになった。本道近代化の歴史で明治開拓使より約160年を経る中、累代に渡りこの土地に住み着き地道に事業を積み上げて来たのが老舗である。その中には(株)秋山愛生舘のように開拓者と共に本道に熱い思いを馳せ“医薬”や“公衆衛生”という公的な側面から“奉仕の精神”(社是)をもって地域に貢献して来た企業がある。歴代の経営者たちは地域事情の隅々にまで目が行き届き、風雪に耐えてどの様なリスクを背負っても決してその場から逃げたりはしなかった・・だからこそチャレンジ精神を忘れずに育てる!私は”地場力“の底力を目の前にして胸が躍った。同じ老舗である()ほくさんが太陽電池を開発し周辺に明るい話題を提供したのもこの頃、こうした動向を身近に触れて”実業“とは、社会の課題を真正面で捉え個人自らがリスクを背負う”勇気“と”決断力“が必要だと深く感じ入った。仲間との議論は別にして私自身も”自分なりに地元に役立つ仕事をしてみたい“との思いに駆られ、ある日、秋山氏に相談したところ快く協力を約束して頂いたことが弊社創立の発端となった。今も秋山氏に会う度に”企業が果たすべき公益性“について様々な角度から助言を頂戴している。現在、秋山氏が取り組む財団活動(研究助成と社会貢献活動支援)は我々地場の企業人に対し”地域を支える企業のあり方“について、ひとつの具体的な形を示すものであろう。
 さて、最初に作った弊社のパンフレット(昭和六十年~平成2年)が手元にある。
その中に4つの事業内容が図に示され、中心には「産業総合データベース」との表示が青い帯で描いてある。これを取り巻きtotal utilityと称する●情報システムの開発●企業経営コンサルタント●産業コンプレックス●先端技術開発など事業群が並ぶ、これが弊社黎明期の構想である。推進組織は総務部はじめ実業を目指す先端技術部と製品開発部は西陰研治氏が担当、情報技術部(医療システム課、ネットワークシステム課)の責任者は筆者、企画部は故・徳本英雄氏(元、HIT理事長)が引き受けた。創業三年目(昭和六十二年)、(株)酵生舎設立に伴いそれまでの先端技術部と製品開発部を移行すると同時に西陰氏も移籍、故・徳本氏は()北海道開発問題調査会(当時、故・志摩良一理事長、現・HIT)の事業(シンクタンク)を専任することになり企画部は発展的に解消して情報開発部のみが残った。以来、弊社はソフトウエア開発が事業テーマの中心となり、エンドユーザ開拓をモットーに発展して来た。途中、振るわぬ計画や保留した案件も発生したが、その都度関係者の皆様から暖かいご支援を頂きお陰様でここまで無事に辿り着くことが出来た。「光陰矢の如し」と言えばそれまでのことだが、私の脳裏に刻まれている当初の構想は少しも色褪せていない。たとえ実現はその一部に留まったとしても、今なお創業理念を熱い思いで抱き続ける限り“生々しい課題”に取り組んでいる・・と現在進行形で言わせて頂きたいものである。ただし、昨年五月、朋友の徳本氏が入院先の病院から“近いうちにまた呑もう”とひと言告げた後、約束を破って旅立ったことが今も大きな痛手となっているが・・。
 今ひとつ、いつまでも北海道の“未来”を手繰り寄せたい心境に駆られている者は何も私ばかりでない。当時、議論に議論を重ねた北海道を愛する仲間たち(もう若くはないが・・)も同様に現在も熱い気持ちを持ち続けそれぞれの立場で元気に活躍しているからである。たとえば、本年は異例の寒波と積雪に見舞われたにもかかわらず、昼夜問わずひたすら人命の安全を期して道民の交通機関を守り、且つ新幹線開通に“未来”を描く同志が身近にいることも忘れてはならない。よって、むかし、我々が胸に“灯した火”は未だ燃え尽きてはいない!これからは吉田松陰に習い“至誠にして動かざれば、未だ非らざるなり”を座右の銘に、決して諦めず、本道に住む若い人々への支援者として、失敗を怖れず忍耐としなやかさをもって“ニューフロンティア”をお手伝いしたい!と願うばかりである。(終)