第5話 少年時代(五)
2012.07.16, 月曜の朝
~2012.7.2(月)~
私は唖然として葦の葉を背にして波打ち際に立ちすくんだ。
ついに出た米兵の切り札!“川底に呑まれる”不気味な恐怖が暗闇の中からおどおどしく顔を持ち上げた。正々堂々たる“決闘”とは、勝敗を問わず戦う者同士の勇気と技量の檄突であるはず、しかし、この場合は違っていた。勝者の“後始末”によって敗者が“生け贄”にされる遺恨に満ちた情け容赦ない冷酷な結末が待っていたからだ。私は完全に侮辱されたが、そればかりではなかった。新品の運動靴も見る影も無く泥だらけとなったからには見付かれば叱られる、今さら母との約束を破った行為を弁解する訳にも行かない。私は出口のない迷路に足を突っ込み、屈辱と後悔が同時に襲い掛かって来た。白い靴は秋の運動会が近づいたと言って母がわざわざ札幌から買い求めて来た。千歳駅まで迎えに出た私をしげしげと見詰め「いつの間にか背が伸びたわね」と笑みを浮かべた姿は昨日のように憶えていた。直ぐその場で足のサイズを確かめると「思った通り!ぴったりだ」と嬉しそうに囁いた・・。この頃になるとお店も繁盛していたので、母は月に一度ぐらいは札幌に出掛け買い物するのが習慣となった。お店で壊したグラスや皿など食器の補充、家人には珍しい果物(バナナやパイナップルなど)や綺麗な絵柄の入った洋装の反物をお土産代わりに持ち帰り我が家で家族同様に暮らす女性たちを喜ばせていた。この時も私を真正面に据え「必ず運動会の日に履きなさいよ」と固く念を押して下駄箱の奥に仕舞い込んだ。この時交わした約束はいつまでも忘れることはなかった。毎朝、家を出る時に下駄箱を覗いてはその日が来るのを指折り数えて待っていた。だが、運動会はずっと先のことで私は“お預け”を喰らった飼い犬のように辛い我慢を強いられていた。
新しい靴を履きたいと願う気持ちにはもうひとつ理由があった。それは履いているゴム靴の爪先が破れていたからである。何かと言えば丸見えの親指がみんなの笑い種となり、それが口惜しくてならなかった。この朝、とうとう我慢出来なくなり母の目を盗み下駄箱から持ち出すと意気揚々として登校した。従って、運動靴の一件はもちろんのこと、米兵との“決闘”のことも、幸ちゃんが原因だと判れば本人が大目玉を喰らうに決まっている、そう思うと何が何でも秘密にして置かねばならない彼女との信義の問題であった。幸ちゃんはあくまでも被害者であり悪いことは何もしていない・・すべてが乱暴者の米兵が起した事件だ!と怒り狂った気持ちで一杯、汚れた靴も学生服も川べりで滑って転んだと平気な顔で母に繕えばそれでことは無事に通ると決め込んでいた。
全身が泥まみれになった私の前方には、少し距離を置いて米兵が苦々しい顔付きで胸を張り仁王様みたいに突っ立っている。いかにも全ての逃げ場は塞いだ!と言いたげに憎々しい威圧感を振りまき、脂ぎった額には大きな汗粒が浮いて光っていた。腕捲りした素肌の右腕には抉れた歯形とパックリと開いた傷口が覗き、これまでの凄まじい戦いぶりを物語っていた。もちろん、青龍の姿は見る影もなく血の海に沈んでしまい、猛々しい虎もその牙を清流に呑まれ、ふたつの勇者は共に川面を渡る風に追われて“まぼろしの英雄”と化してしまった。
私は米兵から目を離さず、何処から攻めて来るのか?用心深く目を光らせていた。ところが、少し間を置くと米兵が落ち着きを取り戻したように急に穏やかな顔付きに変わった。二人とも相当な痛手を負っているのだからこのまま“休戦”しても不思議でなく、心の何処かで私もそれを望んでいた。すると、米兵が何かを決心したようにひとつ大きく息を吐くと傷ついた右手を差し出し近づいて来た。ゆっくりと、歩幅を大きく取りながら私から目を反らさずに歩いて来る。心なしか笑みを浮べており、私は何ら疑うことなく“和解”を求められていると受け取った。しかし、それは私を油断させて接近するための見せかけであった。
互いの右手が接触するや否や米兵はその手で私の襟首をぐっと掴んだ。思いも寄らぬこと、これをチャンスに米兵が豹変したのである。いきなり私を手前に手繰り寄せるとそのまま強引に浅瀬に乗り出した。この戦いは最初から体力の差が大きくものを言い、僅かな隙でも付け込まれると小男の私は急転直下、掴まれば忽ちのうちに宙釣りにされ何処へでも吹き飛ばされる・・そのことぐらいは十分承知の上だった。しかしながら、余りにも狡猾で卑怯な変わり身の速さに気後れしたのが致命傷、頭の中が真っ白になり何が何だか解らなくなった。脇の甘さが自爆を招き、巧妙な作戦で挑み続けたはずの自分が逆に敵の罠にはまってしまった・・悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない。腹が煮えくり返り“やけくそ”になった挙げ句に“決闘を放棄”するといった無様な結末を迎えてしまった。狩人の罠に掛かった愚かな野うさぎと同じで逃げ場を閉ざされ、私は流れに浸りながら“どうとでもなれ!”と敵の思うに任せ自分の始末を付けることにした。
米兵は必死で私を引き摺りながら波を掻き分け川の中央へと進む。身体がふあふあと水中に浮き力が抜けて己の自由も効かない始末。生暖かい血が口から唾液と一緒に垂れて鼻血がぽたぽたと川面に落ちるが、薄れて行く意識の中でそれも他人ごとのように思われた。深手を負い凍える身体には敗北の無念さも通じなく、プライドも恥辱も何処かへ吹っ飛んでしまい、心身共にぼろぼろになった。それでも狂気じみた米兵の腕力は怪物のように唸りを挙げ容赦なく私を暗い深みへと運んだ。影が長々と川面に映り、薄く橙色に輝く日差しを受けた清流は静かな夕暮れ時を待っているようであった。
いよいよ最期だ!先には川底が待ち構えている・・私は全てを放棄した。やがて川の真ん中に近づくと米兵の腰が水面にまで深々と浸かり、水の中で私の身体は木の葉のようにくるくると力なく回転した。大きくうねる荒波がざわざわと騒ぎ立て、急流はここからはじまりたちどころに深みへと移る・・それを知る私は一心に怖れた。突然、米兵が足を止め下流の方へじっと目を遣った。ここより2~300㍍ほど先へ流されると木造の橋下駄にぶつかり、太い梁が深い川底から迫り上がるように立ちはだかり白い波を掻き立てながら厳つい弾丸道路(旧国道36号線)を支えている。この辺りが最大の難所、米兵の眼は先刻よりこの一点に注がれていたのである。
その後、橋の名はそのまま残し立派なコンクリートに改修されて今も旧道を支えている。清流は長い歳月を経てこの街を潤し光と影を映して止まない。何処までも深緑色を放つ川底は白い砂を敷き占め倒木が黒々と横たわるばかり。ヤマベやウグイ、姫鱒などの住み処であるこの自然の恵みはここより上流へ約25キロほど離れた湖にまで続き、冷たく透明な世界が帯のように連なっている。晴れた日には、活火山の樽前山がその姿を湖面に映し、これら一切のものごとは昔も今も変わらない。この茫洋とした自然の奥行きの中で人間が懸命になって生きている、その有り様がこの街の風情であろう。
私は流れに打たれながら米兵の出方を待っていた。すると、「コゾウ、コレデ・・ギブアップダ!・・」と囁く声が聞えた。いきなり襟首から力がすっと抜けて身体が渦巻く波間に浮かんだ。あっけない幕切れであった。米兵はあくまでも平然とした態度を崩さず、まるで私を空き缶のようにポイと川に捨てて“生け贄”として差し出した。手足をバタバタさせて幾ら背伸びしても足が川底に届かず、大声挙げて助けを求めるが、もちろん、現れるはずもなく急流は容赦なく私を呑み込んだ。
(つづく)