第4話 愛犬ネオのこと
2012.02.13, 月曜の朝
~2012.2.6(月)~
昨年の暮れのこと、ススキノで忘年会を終えた後、二次会を断って一人になった。
宴会の終盤当たりからN君と呑んでいたが話題の中心は彼の愛犬“ハナ”の自慢話、聞くうちに妙に淋しい気分に落ち込んでしまった。昨年の秋、私は愛犬“ネオ”を亡くしたばかりでN君の話からネオの姿が頭に浮かびやり切れない気持ちで一杯になった。そこで、二次会をうまく断り一人静かに呑むことに決めたのである。N君の話によると、ハナは立派な血統書付きの柴犬で今年満8歳を迎えた成犬の雌、普段は健気になついて来るので可愛くて仕方がないとのこと。ただ、ちょっとした拍子に機嫌を損ねると態度ががらりと一変、たとえ飼い主と言えども容赦なく噛み付くので危ないとのことでもあった。彼女が生まれて間もない頃にペットショップで出逢い、丸い目をしてクンクンと泣きながら頬を嘗めて来るので“自分を気に入ってくれた!”と早合点、即刻その場で決心したそうだ。だが、飼ううちに気性の荒さが目立ちはじめ、ヒステリーを起こすと相手構わず吠え掛かるので見知らぬ訪問者には気を抜けない・・などとN君はこぼしながらも満足げであった。しかし、この凶暴さとは反対に彼女の容貌は小柄で顔立ちもよく堂々と胸を張り、形のよい胴体を細い前足で支えていると言った具合、凛々しいハナの姿に最高級の言葉を送っていた。その上、艶々した毛並みが更に貴婦人の気品を備えている・・とのことで話は尽きず、私はハナの美しい姿を想像しながらじっと耳を傾けていた。血統書付きであろうとなかろうと、どんな犬でも鼻先をすり寄せて甘える仕草には飼い主は気を許してしまうもの、その点はネオも同じでそこが何とも言えない可愛いところだと共通点を見付けた思いがしていた。相手が誰であろうとお構いなく堂々と自分の存在を誇示する気丈夫な気質、聡明な容姿に相応しい俊敏な行動は他に比類無き柴犬独特の品の良さ、名実ともにハナは名犬であろうと羨ましく思ったりした。
これに比べ我が愛犬ネオは日本犬(母親)とゴールデンレトリバー(父親)との掛け合わせで体重が28キログラム、身長は1m55cmで子供と同じぐらいに大きな図体をしている。にもかかわらず何処か臆病で愚図な雑種犬。
しかし、そうとばかり言えないところもあった。我が家に貰われて来た時、裏玄関の横に植えてある芝生の傍に犬小屋を設けたが、その夜一晩だけ過ごしたきりで翌日からは玄関先で平然と寝るようになり、挙げ句の果てに隙をみて部屋に入って来る始末で家族と一緒に住むところまで侵食して来た。呆れた図々しさでいつの間にか彼の座る場所と寝る場所も専有されていた。要するに、茫洋とした風貌とは別に周囲の空気を読むことにはすこぶる敏感、柄に似合わず抜け目のないちゃっかり屋さんだったのである。常日頃は玄関フードに出て外を眺めることを好み、雨の日は屋根から伝わって来る雨だれの音を聞きながらのんびりとまどろむ。たまたま通行人を見掛けると正気に戻りワン!と大声でひとつ吠えて見せる。しかし、相手からぐっと睨まれると直ちに部屋に引き下がりクンクンと鼻をならして狼狽える。時々、庭先に遊びに来るカラスとは天敵で鋭い嘴で鼻先を突かれると大騒ぎで助けを呼ぶ、斯様に意気地がないくせに私と一緒ならば散歩は何時でも付き合ってくれた。しかしながら、彼の容姿を問えば父親に似てすっと鼻筋が通り如何にも賢く見え、大きく開いた眼に涼しげな睫は理知的な一面を匂わせピラミットみたいに耳がピンと立っているところ(ここは母親譲りだが)などは精鋭そのもの、時計針と同じ方向で巻いたふさふさとした尾は思う存分に勇姿を讃えていた。そればかりではなかった。首の付け根あたりから胸に掛けて長く白い毛が生え揃い、まるでライオンのたてがみを思わせて威厳に満ちている。加えて、頬から顎にかけても厚く白い毛がひときわ目立ち、汗の臭い匂いをぷんぷん放つ身体は厳しい訓練に耐え抜き隆々とした軍用犬を想像させた。いずれも父親に似て堂々として男性的な魅力に満ち溢れていた。私はこの出来過ぎた危うい気品と孤高なる風貌を有する実直さ、その飾らない彼が好きであった。
毎朝、ネオは私の寝床に訪れるときまって目を合わせる。すると、間髪入れず玄関の郵便受けから新聞紙を抜き取り奥歯で噛み締めると大騒ぎで部屋中を駆け回る。台所、居間、寝室、と見境がなかった。家内と私のために用意した食卓は音を立てて踊り出し目玉焼きや味噌汁が無惨にも床に零れ落ちた。この呆れるほど大げさな動作こそが私を散歩に誘う決死の合図であった。土砂降りの雨、傘も許さない大荒れの風、雪に埋もれた歩道もなんのその、グスグスと鼻を鳴らしながら平気な顔で先頭に立ち歩き続ける。毎朝の散歩コースは決まっており、川べりの遊歩道を橋から次の橋までひと周りしてから街中へと進む、途中、スポーツ新聞を買うのでコンビニエンスストアに立ち寄ると店先のドアの傍で正座して待っていた。冬は除雪が済んだ国道を脇目もふれずに突っ走り、時々、立ち止まると新雪の中へ鼻を深く突っ込んでは何を探した。たぶん、好物のビスケットだったのかも知れない。いずれにしても、時計で計るが如く午前5時30分にぴたりと合わせた日課がはじまった。
日曜日の朝は少し時間に余裕が出来るので、食事を済ませてから自家車で青葉公園へ出掛ける。ネオは常に助手席に陣取るので家族は黙ってこれに従った。車窓を開けてやると鼻先を外に出して森の空気を胸一杯に吸い込み、頭を前後左右にひねり外の風景に見遣った。やがて図書館の駐車場に着くと、待っていた!とばかりにバタバタと車から降りるとその足で林道に向かって一直線。帰り道、ネオは神社山に棲むエゾリスやアカゲラが放つ音に耳を傾けて立ち止まり、テニスコートのベンチでは満開の山桜やコブシの白い花に気を奪われて思わずワン!とひとつ吠えた。殊に雪解けの春が好きだった。ホウキグサの中で真っ先に咲くエンレイソウを見付けると鼻を近づけたままその場から離れようとはせず、何かもの思いに耽る様子だった。インディアン水車へ出掛けることもしばしば、秋には橋の上から川を上るサケが見え、冬には白鳥の群れにも出逢った。その度にネオは眼を凝らしてじっと追い掛けていた。
仕事を終えて帰宅する時刻は午後7時頃、裏玄関のドアを開けるとネオは思い切り尾を振りながら頭を左右に揺らして出迎えてくれる。そうした時は、着替えは後廻しでそのまま散歩に出た。終日、ネオがこの私を待っていてくれたと、感激のあまり散歩時間も朝よりも長目になった。風呂に入りビールを飲み出すとチーズやスルメを狙って傍から離れようとしない。胃弱な彼に珍味やピーナッツは禁物だと家内から注意され私も我慢することにした。外出先でビールと一緒に珍味が出るとネオを思い出しては後ろめたさを感じ、一緒でなくともいつも彼が傍に居るような気がしてならなかった。祭日には一緒に過ごす新しいプログラムを工夫することが何よりも楽しみになった。
隣家にはネオと同年齢のジョンと名乗る幼友達(雄)が飼われており、幼い頃から一緒に餌を食べたり散歩したりして遊んでいた。晴れた日には一緒に庭に出てひなたぼっこをしていたが、昨年の夏、残念なことにジョンはネオよりも3ヶ月早くに旅立った。亡くなる前日、眼を閉じたまま少しも動かないジョンが飼い主に抱かれて我が家を訪れた時、ネオはじっとこの友人の顔を見詰めてから静かに鼻先を近づけ“クン”とひとつ、小さく泣いた。最後の別れを告げたに違いなく、私ははじめて耳にした彼の悲しい泣き声に言葉を失った。言葉を必要としない彼らの深い悲しみは、誰も立ち入ることは出来ないであろうと思った。また、中通りを挟み二軒先の家にはメリーという3歳年下の女性友達がいた。ネオが好むタイプではないらしく彼女とは最後まで恋仲にまで発展しなかった。散歩の途中、メリーと出くわすとネオは知らぬ振りを決め込みさりげなく通り過ぎようとする、それでもメリーが後を追って来ると迷惑そうな顔付きを露わに急ぎ足で散歩コースを外して直ちに家に戻ろうとした。もちろん、メリーの方はイケメンのネオを好ましい相手だと高くを評価していたに違いない。
ネオが5歳頃だったと思う、やはり同じ町内でサラリーマンの青年がチャボと名付けた白いスコッチテリアを飼った。全身が真っ白い毛で覆われ小柄で目がぱっちりして愛くるしいところがあった。ある日突然、母親になったチャボが子犬3匹を連れてネオに会いに来た。この驚くべきチャボの無断外出の様子を玄関の陰からそっと覗くと、どの子犬たちもみんなネオと同じく全身茶色の毛で尾がクルリと右に巻いている。まぎれもなくネオの子供だと知り私達家族は“いつの間にか・・ネオが父さんに!“と声を弾ませ大笑いしたことがあった。ネオは白くて優しいチャボの姿に母親の面影を見ていたに違いなかった。後日、青年が転勤になり挨拶に見えた時、辛い親子の別れを目の前にした私達は悲しみに満ちたネオの姿に思わず絶句した。ネオと言葉を交わすことはなかったが、何事につけて私達は彼の気持がよく解り、彼もまた私達の心を見抜いていた。
そのネオが昨年の春先から腰がふらつくようになり夏には散歩も覚束なく、お正月に千歳神社の元朝参りで撮った写真が最後の記念となった。秋の気配が立つ8月中旬頃からは顎を出し身体を床に伏せたまま、やがて起き上がれなくなった。下腹にタオルを通して後ろ足を持ち上げてやり、垂れた前足を静かに引き摺りながら数歩・・また数歩と庭の隅まで進めては用便を済ませた。そっと優しく丁寧に・・と幾度も自分に言い聞かせて毎日、毎日、毎日辛い日々が過ぎる中で死がいつ訪れても不思議でない病状にまで行き詰まった。9月1日、毎年私と出掛ける秋の祭礼も見送り、終日、一時も離れず傍に着き添って世話をすることだけを考えた。出勤しても仕事が手に着かず、急いで帰り無事に寝ている姿を確かめると胸を撫で降ろした。時々、水差しを口先へもって行くと僅か一滴だけ喉へ流し込むと目で微かに合図を送って来た、私の気配を微妙に感じ取っていたであろうか・・。旅立つ前日の夕刻、いきなり“クン”と小さく私に呼びかけるように泣いたので私もつられて泣いてしまった。ジョンや子供達と別れた時と同じくネオが悲しみに満ちた声で私に別れを告げに来た。泣きながらネオの頭と胴体をさすり続けるうちに彼は静かに眼を閉じた。翌日の昼、動かない彼に寄り添い耳を澄ますとまだ息の音が微かに聞こえる。急いで口元に水差しをやるとゴクリと喉を慣らした。だが、衰弱は極度に達し水は空しく口元からこぼれ落ちるばかりだった。間もなくして顎を静かに床に置くと両肩から力が抜けて行き、スッーと息が引けるのが聞こえた。腹から腰に掛けて痩せ細った身体が次第に硬く冷たくなるのを見守りながら“来る時が来たのだ!”と私は心の中で叫びネオを見送った。
ネオは生後4ヶ月ほど経て三男坊が友人から貰い受けて来た。5匹の兄弟でそれぞれ無事に貰われて行き、黒色と茶色の2匹が残った。そのうちの茶色に三男坊の眼が留まったのである。クロは最後まで生家で過ごすことになり、時々、私達もネオと一緒に母親のネネと弟のクロに会いに出掛けたりした。ネオは母親と弟をいつまでも恋い慕い、そして忘れることはなかった。「新しい家族になれ!」と願いを込め母親の名一文字を貰い男の子らしく“オ”を付け“ネオ”と名付けた。その後15年6ヶ月余り、ネオは願い通り家族同然の大切な存在となり、来る日も来る日も一緒に送った愉しい生活はいつまでも脳裏から離れることはない。
一緒に呑んだN君と別れ、私は妙に落ち着かない気分のままススキノの交差点に立っていた。時計は既に午後九時を廻り吹雪がますます激しくなった。やり場を失った気持ちは、そう簡単に戻りそうもないのでいつもの店に立ち寄った。ドアを開けるとカウンターの客がいきなり私に振り向いた。誰かを待っている様子で、他には客はなかった。はじめて見るこの客は私より一回りぐらい歳上に見えた。この店には珍しくお洒落な柄の背広を着こなし、白い口ひげと櫛目の通った白髪が折り目正しい人柄を物語っていた。私が隣に座ると、
「もう、九時を過ぎたのか・・」とこの紳士が腕時計を気にしながら溜息を付いた。代わりの客が漸く現れたと言わんばかりに急いでライターをポケットに仕舞い込み帰り支度をはじめた。帰るタイミングを計っていたらしく彼はいそいそと立ち上がった。
「この吹雪じゃ無理よ、さあ~愛犬の話を続けて下さい」と店主が微笑み、両手で赤ワインとグラスを高く掲げると鮮やかな赤色が背後の鑑に花を咲かせたように美しく映った。どうやら赤ワインは紳士ご自慢の一品らしく、気の利いた心遣いがかろうじてこの場を繋ぎ止めたようだ。犬の話??・・私はN君に懲りず、この紳士にも興味を抱きはじめていた。すると、急に暗い顔付きに変わった紳士が、
「ところがですね、私の大切な犬は・・先月に十八歳を迎えて逝ってしまいましたよ・・」意外な言葉が私の胸を突き破った。店主も顔色を変えあわてている。紳士は差し出されたワインをしげしげと見詰めたきりでその先は何も話そうとしなかった。低く垂れ込めたこのひと声で店の雰囲気は暗闇に着き落とされてしまった。私は鑑の中で目に光るものを指で押さえた紳士の姿を見逃さなかった。私と同じだ!愛犬に死なれて身の置き場を失っている・・背後で隙間風が冷え冷えと通り過ぎて行った。
「・・お気の毒に、でも天寿を全とうしたのだから・・」迂闊にも犬の話題を持ち出した店主が恐縮しながら話題を変えようとした。尚も紳士は黙ったまま、私が現れる以前、愉しい話題で弾んでいたはずのカウンターが“愛犬の死”で急に酔いが覚め白けたのだ。偶然とは言え私も抜き差しならぬ場面に出くわしたらしい・・と焦った。私も同じ身の上であるとこの紳士に打ち明けたいと思い店主に目を転じた。戸惑いながら店主はカウンターにグラスを3つ並べ、丁寧な仕草でコルクを抜き取ると先刻出したワインをゆっくりと注いだ。真っ赤な液体が透明な空間の中を踊りながらキラキラと目映い光を放ち惜しみなくカウンター一杯にばらまかれた。これをじっと見詰めていた紳士が、白い髭を幾度も指でさすると漸く重たい口を開けた。「マスター・・心配させて・・すまないね」と思いやるひと言。長い付き合いのふたりの顔がグラスに映る。すると、目を熱くした店主が、「せめて、俺たちは元気で行こうぜ、それ乾杯だ!」と紳士に奨めながら、一緒に呑もう!と私を誘った。
「お疲れさん!」と私はいつもの挨拶を忘れなかった。癒して貰いたい相手は自分だったかも知れない。
「いつもお奨めの品、さすがに香りがいいや・・」シルバー色の蝶ネクタイと黒いチョッキがよく似合う店主、如何にも“ワイン通”の雰囲気を醸しながら背を丸めてグラスの中に鼻先を埋めてワインを嗅ぎ分けた。その姿は何処かネオの悪気のない仕草によく似ていた。
「何処の国のワインですか?・・」店主に尋ねながら私は紳士の言葉を待った。
「寿命だから仕方がないです・・」不機嫌にやるせない様子で呟く紳士、私への返事ではないので会話にならない。髭を擦りながらもの思いを続ける紳士は自分を納得させようとしていたに違いない。すると、思わず私と鑑の中で目が合った。愛犬との辛い別れが頭から離れない、痛いほど伝わって来る紳士の悲しみ、思わず私はワインを飲み干した。
「なるほど!このワインは本物ですね」再度、紳士との会話を望んでわざと大きな声を放った。ワインのことなど何も知らない私が咄嗟に思い付いた苦肉の策、すると、目を細めた紳士が微笑み掛けて来た。漸く、その気になった相手の気配が嬉しかった。普段であれば、きっとここでワインの講釈がはじまる所だろう・・だが、今夜ばかりは事情が違う。私も同様、相手構わず聞いて貰いたい話があるのだ・・そう思うと熱いものが込み上げて来た。・・もしかすると、この偶然の出逢いは天国でネオと紳士の愛犬が我々老人を励まそうと仕組んだ計略か?・・相棒を失った淋しい者同志をこの店で引き合わせる・・もしそうであれば何も言うことなし!・・ただ黙って呑むべし・・そうした想いが頭の中を駆け巡った。私はネオの話題は諦めて、
「もう一本、同じワインで乾杯!しましょう・・今度は私のご馳走です」と店主と紳士に迫った。すると、にこにこ顔の店主が幾度も頭を上下させ「よし!行こう!行こう~」と言ってくれ厳つい拳を振り回した。店主が新しいグラスを取り出す隙に、
「実は、・・76歳・・ひとりです・・」と、突然、紳士が自分に言い聞かせるように話はじめた、言葉は途切れ途切れだった。
「・・代わりの子犬が欲しいと思いましてね」苦笑を浮かべ伏し目がちになるとぽつりと言葉を切った。子犬・・子犬の話・・大歓迎!と咄嗟に思った。私はわざと大きな身振りを作り辺りをぐるりと見渡した。ちょうど私も同じことを考えはじめていて、紳士と同じように迷っていたのである。この場は・・照れ隠しでも何でもよい・・誰でもいいから!この老人に答えてやれる勇気のある相手を何とかして探さがしてやろう・・と、自分に言い聞かせていた。私の道化を察した店主が、
「大賛成!一人じゃ余生は淋しいばかりですよ」と紳士に檄を飛ばす。ついでに積もった私の言い分も一気に吹き飛ばしたくなった。
「・・ですが・・よく考えてみますと・・・」相変わらず紳士の言葉は丁寧過ぎる。
「犬の平均寿命は15歳・・子犬より私が先に逝くに決まってます・・残った相棒が気の毒で・・迷うのです・・」ひとつ、ひとつ言葉を選び戸惑う紳士は自分の胸の裡を語りはじめた。私も同感、我が身もますます老い衰えて行くばかり、今まで愉しく過ごしたネオとの生活は望めない、だが、一人では淋し過ぎる・・・私も煮え切らないままだった。子犬を諦め掛けている紳士へ同情は深まるばかり、それは同時に私の余生の問題とも重なった。
「偶然ですが、私も愛犬を亡くしたばかりです」と丁寧な言葉で打ち明けると、驚いた紳士が直ぐに会話を打ち消すように、
「君ならまだ若いですから十分間に合いますよ」と私を慰めようとしてくれる。紳士はグラスを傾けワインに鼻を近づけるとゆっくりと香りを嗅ぎながら一口嘗めるように含んだ。何処か気品が漂う紳士の流れるような仕草に何とも言えぬ魅力を覚えていた。
「いいえ、二度と辛い目はごめんです」急いで彼の言葉を打ち消した。辛い心境を慰め子犬を飼うことを奨めたいと思ったからだ。すると、紳士が私に握手を求めてグラスを近づけて来た。
「そう言わずに、元気で行こうじゃないか!」と自分を震い立たせるような強い口調であった。驚いたことに店主が、
「どんな命だって授かりもの、誰が先など神様しか知らぬことだよ」ここで思いも寄らぬ名言が飛び出した。・・なるほど、寿命は自分のものであるには違いないが誰にも解らない・・誰のものでもない・・先だとか後だとか・・神様しか知らないことだ・・何か勇気が湧いてきた。「そうです!命は誰にも解りません」勢いに乗じて思わず突いて出た。
「どうやら、私にも子犬を飼う資格が与えられたようですね」とクスクスと紳士の含み笑いが辺りを明るく照らした。
「子犬の話に移りましょう!」店主に代わって私が紳士に語り掛けた。
「やっと調子が出て来た、今夜はとことん呑みましょうよ!」店主の太い声が響くとカウンターの上に新しいグラスが3つ仲良く並べられた。深刻な空気はいつの間にか何処かに消えていた。三人揃ってグラスを手に持ち「乾杯!」と一斉に声を挙げる。話題はいよいよ“子犬”、話すうちに紳士は意外なことを打ち明けた。この夜、知人との約束で子犬を連れて来る手はずで待っていたとのこと、ところが、時間が過ぎて行くに従い心に迷いが出て来て、ふと帰ろうとしたところに私が現れたということだった。紳士が酔った勢で立ち上がり胸を張り右手の人差し指をぴんと延ばすと、
「もう一本、今度は俺が、これで三人とも割り勘だ」と珍しく荒い言葉を口にしてカウンター越しに店主に握手を求めた。いつの間にか、三人それぞれが高価なワイン一本を空けたことになる。愛犬の話題はめでたく一段落、お互いに言葉には出さなかったが“寿命”はあくまでも我々が関知できない授かりもの、老いを承知で勇気を出し子犬を飼って元気な余生を送る!これが三人の結論。老いて自信を失った私達にひと筋の光が見えた。元気を取り戻した紳士がお得意のワイン談義をはじめた。紳士の尽きない講話を聞きながらほろ酔い加減になった私、この老人に相応しい可愛い子犬は近いうちにきっと授かる!と逸る気持ちで一杯になった。約束の相手は最後まで顔を見せなかったが、約束通りに紳士は子犬とご対面したに違いない。ネオには悪いが・・私にもチャンスが訪れるだろう、それはネオからの私への激励を含む贈りものだ!と期待は膨らむ。外に出るといつの間にか吹雪は止み、空が嘘のように澄み渡っていた。急いでタクシーに乗ると酔った勢いで眠り込んでしまったらしく、ネオが子犬を連れて青葉公園の森から全速力で走り寄って来る、そうした夢の中で揺られていた。タクシーが止まり、正気に戻った私は茶色い子犬に呼びかける天国のネオを思い浮かべながら漸く玄関口に辿り着いた。