第2話 長崎のこと
2011.12.05, 月曜の朝
~2011.12.1(木)~
今、時代が大きく変わろうとしている。
日本、そして我々の故郷であるこの北海道も政治・経済・産業・学術、日常生活など
広範囲に亘り“改革”や“変化”を余儀なくされている。“大都会”と“地方”の格差が広がるばかりだからである。約160年昔、明治時代から築かれた中央集権国家そのものが上記の理由から危ぶまれ地方都市が衰退しつつある昨今、色々な機会を通し“活路を見出す針路”について議論が盛んである。その度、各事業テーマやスキームにこだわらず“新しい種”を蒔き育てる仕組みや技術をモデル化できれば!と、そうした思いに駆られる。
例えば、江戸時代、長期に亘る鎖国政策の中で“長崎”だけが日本と世界を結ぶ唯一開かれた窓であった。極く限られてはいたものの、日本人はここから遙か遠く西洋事情を学びながら行動していた。長崎に集積された歴史と文化は厳しい身分制度(封建制)に準じた藩政のあり方とはまったく趣向が違い、オランダとの交易を礎に開放的で理知的な風土を築き上げた。その中で“蘭学”に注目すれば、医療をはじめ自然科学(天文学・物理学・化学)や関連技術(測量術・砲術・製鉄、航海術)はここを中心に博多・豊後・中津・大阪・江戸へと広く静かに伝播し、危機迫る幕末期を迎えて見事に開花、近代日本を拓く源泉となった。言うに及ばず、正しく先端技術が果たした歴史的な役割の一例である。16世紀、鉄砲と共に伝来したこの異国の“学問”は、江戸幕府の中枢思想である“漢学“(儒学・朱子学など)と相対峙し異端の如く見なされ決して歓迎されることはなかった。
しかしながら、開明派の知識人たちは厳しい監視の目を逃れて爪に火を灯す如く活動を続ける。
やがて、嘉永6年(1853年)黒船来航と共に幕府は政策を“開国”へと大きく転換、直ちに軍艦“咸臨丸”(蒸気機関)をオランダへ発注する。“蘭学”が光を浴びた瞬間である。2年後(安政2年)にはオランダから教官を招聘、各藩から有能な人材を集めて長崎海軍伝習所を設立、総勢200名にも及ぶ第1期関係者の中に勝海舟も参加、彼も“蘭学”を学ぶひとりであった。低い身分の彼が幕府に上申した「愚存申し上書付」の中で海軍伝習の目的は明らか、長崎に滞在中、オランダ教師と一緒に暮らし航海術はじめ様々な学問を学んだ日々のことを“蚊鳴余話”に著し、やがて“咸臨丸”でアメリカへ渡航(万延元年=1860年)するに至る。
文久2年1月(1862年)、脱藩した坂本龍馬が10月に勝海舟を尋ね、「世界の中の日本」であることに開眼する。2年後(元治元年)、龍馬は海舟に随行し、はじめて長崎を訪れたことを契機に神戸海軍繰練所の運営を手伝う。海舟を師と仰ぐ龍馬、彼も航海術やオランダ語を学びながらやがて海援隊を創設。海舟と会ってからの約6年間、航行した距離はおよそ2万キロ、地球半周分の距離である。航海数9回、江戸・京都・大阪から長崎・鹿児島・下関へと行動範囲を広げた龍馬の凄まじい晩年の生き方にいつも胸を打たれる。
いつの時代も然り、節目にあって“技術”が担う社会的役割は大きく、そして深い、その技術を習得した若者だからこそ時代の先端に立つ・・そうした“想い”を脳裏に描きながら歴史に残る仕事をしたい!と、先夜、キックオフの帰りに某社員と呑んだ。(終)